2008年09月16日

GHQによる禁止語「八紘一宇」

 写真は南千住6丁目の千住大橋たもとに立つ「八紘一宇」の碑です。
PICT7359.jpg 
 文字は 林銃十郎 陸軍大将(第33代内閣総理大臣)によるもの。
 こちらのページによると「昭和15年11月10日 愛國婦人會荒川區分會南千住聯合分區建立翁陸軍少将久世為次郎敬書」ということだそうです。

 さて、この「八紘一宇」という言葉の意味を御存じですか?「八紘」とは四隅、四方、「一宇」は一つの家といった意味です。言葉の元は、神武天皇が橿原で即位された時の勅語の一節「八紘を掩いて宇と成さんこと亦よからずや」という建国の理想からきています。

 この言葉は大東亜戦争の敗戦後、昭和20年12月に占領軍総司令部(GHQ)によって公文書での使用が一切禁止されました。「侵略戦争を推し進める為に利用された言葉」とのレッテルを貼って・・・。

 戦後教育による洗脳によって、大東亜戦争という言葉同様、使用を敢えて避けるのが当たり前という風潮が蔓延しています。

 しかし、「八紘一宇」の言葉は大東亜戦争前の「黄色人種など人間扱いされない。白人こそがまともな人間である。」といった国際情勢の中で、「人類、皆兄弟」といった理想を掲げた言葉であり、現にそうした認識の下で多くの日本人が動きました。

 文章が長いですが、是非、読んでいただきたいのが、歴史研究家の岡崎渓子氏こちらの記事です。以下、極一部、抜粋しておきます。

(以下、抜粋)
 松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに日本のユダヤ政策を説明している。「ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない」というのである。それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。かつ、それを世界に対して語らない理由はない。松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、自分は防共協定は支持するが反ユダヤ主義には賛成しないと言っている。

 1939年の上海の入国制限は、軍の権威と自信を示そうとするものだった。政府のほうは自信がなく、時には無関心で、訓令も曖昧だったため、現地の担当者には行動の自由があった。満洲や支那では、はじめのころ、優越感や自信の欠如あるいは単なる手違いから、ユダヤ人を蔑視した取りあつかいも見られたが、後にはユダヤ人を援助し、支援し、さらには救済する方向に転じて、かつての過ちを補うことになった。欧州で戦争がはじまると、難民の流れは極東にむかう。難民の運命は日本の軍人、市民、税関や警察そして外交官の手中にあった。

 上海の柴田領事は生命の危険をおかしてゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。関東軍の東条英機参謀長も満洲のユダヤ人を穏健に処遇するよう指令を発したし、アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善をはかった。ぎりぎりの状況のなかでユダヤ人を救おうとした外交官もたくさんいた。日本船の船長は収容能力をこえてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこれをはねつけた。

 ユダヤ人保護に尽力した安江大佐は、大連で終戦を迎え、ソ連軍によって捕虜として拉致され、シベリアに抑留された。そして各地の収容所を転々とした後、脳溢血で倒れ、収容所のなかで死んだ。
(以上、抜粋終わり)続く文章も是非、お読みを!

 こちらの記事中には、八紘一宇の精神に従って数万人のユダヤ人をドイツの迫害から逃したこと等、詳しく書かれています。 
(一部、抜粋します)
■4.八紘一宇を国是として■

 安江大佐は9月19日、外務省本省において、外務、陸海軍 関係者を集めて、ユダヤ問題に関する講演を行い、次のように述べた。

 ユダヤ人は従来第三者のごとき地位にあったが、支那事
変とともに我々の軒先に入ってきたのである。これをいか
に扱うか。ドイツのごとき方法を取るべからざることは明
瞭である。日本の八紘一宇、満洲の諸民族協和の精神から
しても排撃方針は不可である。よろしく保護し、御稜威を
彼らにおよぼすべきである。

 御稜威(みいつ)とは皇室の民を守る威光のことである。そ
の威光をユダヤ難民にも及ぼすべく、安江大佐は日本帝国全体
の国策決定を板垣征四郎・陸軍大臣に働きかけた。曰く:

 我国は、八紘一宇を国是としておりユダヤ民族に対して
もこれを例外とすべきではない。彼らは世界中に行先無く、
保護を求めているのである。窮鳥懐に入れば猟師もこれを
殺さずという。況(いわ)んや彼らは人間ではないか。

講演、板垣大臣への説得とも、常に「八紘一宇」が安江大佐
の主張の基盤となっていた。こうした働きかけにより12月6
日の五相会議において、板垣陸軍大臣より「猶太人対策要綱」
が提案され、国策として決定されたのである。
(以上、抜粋終了)

 こうした事実は「戦前の日本は全て悪」としたがる自虐史観の学校教科書ではもちろん教える筈も有りません。

 国際法、国際常識に反したリンチである極東軍事「裁判」においても、「八紘一宇」という言葉は「侵略戦争の道具として使った」と主張しましたが、「侵略目標ではない」ということを最終的には連合国側に認めさせました。

 「八紘一宇」は白人支配の世界の中で、黄色人種や黒人、ユダヤ人も含むそれぞれの民族が仲良く一つの地球の上で共存していこうという道徳目標であったのですから。

 その言葉を戦後はGHQが曲げた解釈を流布し、それに従ってこうした「八紘一宇」を刻んだ碑にセメントを流し込んだり、宮崎市の八紘一宇の塔のように削り取ったりする例が相次ぎました。実に愚かしいことです。

 幸い、荒川区においては、「八紘一宇」の碑がきちんと保存されていますので、後世に正しい歴史的事実と共に、引き継いでいきたいと思います。

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posted by 小坂英二 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 区政全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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