講演の知らせをいただいた時、「震災発生時の当事者の話は、具体的に参考になる話が多そうだ」と思い参加しました。その点はもちろん期待通りでしたが、それ以上に山間部の地域社会がしっかり存在している地域の人間の絆の強さ、思いやり、村長(当時)の村民を想う心に胸を打たれ感動しました。荒川区助役の挨拶に続き、長島代議士の講演。
以下、講演を聞きながらしたメモから話の一端を。
・現在、中越大震災の復興は全体で85%程度進んでいるが、平地中心で、旧山古志村などの山間部は非常に遅れている。現在も8000人が仮設住宅で暮らしている。現在、代議士としてその復興のスピードを上げるべく尽力している。
・携帯電話の通信塔が倒れ、当初は通話がほとんどできなかった。その通信塔に頼らずに途切れ途切れでも通信できる場所を探して、県庁に第一報を入れた。
・村長として心がけたことは「迷わないこと」「間違えないこと」
・14の集落が寸断され全て孤立してしまった。苦渋の決断で全村民避難することを決めた。大きな混乱も無く、全員避難が26時間で達成できたのはそれぞれの集落で地域コミュニティーがしっかりしていて、責任者がまとめてくれたから。
・前例の無い「夜間のヘリによる避難輸送」を粘り強くお願いした。県庁は難色を示したが、やがて折れ、「自衛隊がOKを出せば県も認める」となり、自衛隊は「夜間は危険性が有るが、まず1回行ってみましょう。着陸できなければ引き返します」との答え。現地に行くとなんとか降りることができ、合計10回(1回25名×10回=250名)離着陸でき、弱者優先で避難を行った。その際、ペットもひざに抱いて連れてきた。
・今までの人生で経験したことが無いくらい多くのマスコミに囲まれた。マスコミには「全国の皆様に協力をマスコミからもお願いしたい。山古志村の様子をこと細かく伝えて欲しい」と常にお願いして、自分も150日間毎日発表を行った。そうして全国に報道がなされることで、多くの協力を得られたことに感謝している。当初「地震でめちゃめちゃになった山奥にわざわざ帰ることにお金をつかってもしょうがない」という声も聞いたが、山古志村の今までの暮らしなどが報道されることで世論も「そうした素敵な古里なら被災者の方が再び帰れるように協力しよう」という方向に変わってきた。
・「日本の古里を復活したい」これが強い願い。
・新潟県庁では親しみを込めて「無法者」と呼ばれていた。法が適用できなくても、「なんとか対応してほしい」といった働きかけばかりしていたから。
・全村避難をし、道路もある程度復旧してから、村の入り口で24時間体制で監視(火事場泥棒?が入らないようにと思われます)をしてくれた方々に感謝する。
・村民が一時帰宅を強く望んだ。「大事なものを置いてきたため落ち着かない。短時間でも帰って持ってきたい」と。そこで、県庁を通して自衛隊と交渉し「一世帯一人に限り、着陸から2時間で離陸」という条件でヘリを出してもらい一時帰宅した。
・その一時帰宅の際に、75歳のおばあちゃんが強い希望も有りから一時帰宅した。2時間の限られた時間で片道45分歩き、往復1時間半、残り30分の時間で仏壇の位牌を持ち出すと同時に庭に植えてある山芋を抜いてきた。その芋を村長である私に「地震の対策で疲れているだろうから食べて疲れを取って欲しい」を渡してくれた。避難生活で自分が苦しいのに村長の疲れを思いやってくれるというそのやさしさに強く感動した。(こちらの情熱語録に少しその話が出てます)
・避難生活している方には、自分の携帯電話番号を伝えて、「どんなことでも遠慮せずに連絡して欲しい」と話をしていた。批判等も有ったが、夜間電話を受けると「まだ起きてたのかい。疲れてるだろうから早く休まれてはどうか」といった励ましの言葉も多かった。村民の方からビールと漬物をいただいたが、ありがたく、もったいなく、ビールは飲むことができずに取ってある。来年、山古志村に帰ったらそのビールを飲みたい。震災発生以来、お酒は断っている。
・平成18年中には、旧山古志村の村民の6割が帰村する。4割は平成19年に帰る予定。自分は最後の一人として帰る。
・旧山古志村は生涯現役の古里(小坂注:参考記事:震災前の山古志村、写真集も)。復興計画には「高齢者の仕事を奪わない」旨を盛り込んだ。高齢化・過疎化が進んだ村であったが国民健康保険も介護保険も黒字を維持していたのは生涯現役だから。
そうした経緯を聞いた後、最後に、「常に災害に備えて欲しい」旨からこんな話(気をつけて欲しいこと)も。
・自宅に帰っても、携帯電話は持っておくと良い。置くと地震が起きたら吹っ飛んで見つからなくなる。そうした事例を多く見てきた。今はトイレにも持っていっている。妻には怪しまれるが・・・。
・懐中電灯は固定して設置しないと、震災時に揺れで割れて使えない。
・非常用電気を備えておくと良い。
・外出する時に飴とチョコを常に少量持っている。震災が外出時に起きた時にこれだけでも非常食として3日間持ちこたえられる。
・持病の有る方は、その薬(継続医療の薬)を外出する時も1週間分常に持っておくと良い。災害時には入手が極めて難しいため。
・携帯の充電器、車から充電できる器具、替えのバッテリーは常に持っている。
こうした箇条書きではなかなか伝わらないかもしれませんが、震災時という非常時でも、人の心の温かさを感じる話が多くで、私だけ出なく多くの方が感動していました。朴訥とした語り口でしたが、強い信念と地域を愛する心が非常に伝わってきました。胸には北朝鮮の拉致問題の早期解決を訴えるブルーリボンが。
長島代議士の地道な取り組みは続いています(昨年10月の新聞)が、マスコミも「小泉チルドレン」などといって自民党の初当選代議士を報道する際に、20代で当選して「ベンツが買える!新幹線もただで乗れる!」などどはしゃいでいた議員ばかり追いかけるのではなく、こうした地道な活動をしている方に光を当てじっくり報道してもらいたいものだと切に思いました。
講演後、会費や会の参加者から集まった義捐金が長島代議士に手渡されました。いつか、復興した旧山古志村(現在は長岡市の一部。関連記事)を必ず訪れることを小坂も心に誓いました。





失礼しました。ご指摘、ありがとうございました。訂正させていただきました。