日曜日は尾久消防団の団員と家族で懇親バーベキューを都立舎人公園で行い、その後もそのまま公園で遊んできました。写真は舎人公園のソリ遊び場です。
さて、7月20日のブログ記事「「7.21 領土不法占拠侵略抗議!国民行動」で声を挙げて参ります!皆様も共に!」に書いた通り、21日の国民運動に三河台公園から参加して参りました。
小坂からは演説で
「日本を取り囲むゴロツキ国家が如何に不当なことを要求してきているか、またそれに対する怒りは多くの弁士と同じである。今、問われているのは周囲のそうしたゴロツキに対して日本国、日本人自身が矜持と覚悟を持って、摩擦を恐れずどれだけ毅然とした態度を取れるか、その勇気が問われている。
その勇気を持つ大切さを周りの人々に身を持って伝え、同時にゴロツキ国家の現状を広めて行こう。日本は最近、リビアが内戦状態にあった時に「自国民を虐殺している」という理由で資産凍結をした。それは正当なことであるが、それならば、支那共産党や北朝鮮、朝鮮総連へも資産凍結をするのが当然ではないか、と強く訴えたい。そうした当然の覚悟が無いから周辺国からコケにされ続けるのだ。
共に声を挙げ、戦って行こう!」
と訴えかけて行きました。
多くの国を想う同志が集い、声を挙げました。
その後、六本木駅前を通るルートでデモ行進。先頭に立って声を挙げ続けました。
「頑張れ日本!全国行動委員会」の 領土不法占拠侵略阻止!国民行動 (7.21)の集会やデモを終え、公園から遠く離れた場所から支那大使館前に「一組5人」に強制分離され、一組の抗議時間はさほど長くないのに、間隔を5分程度空けて兎に角分断をする。
それに加えて、任意の筈の荷物検査を強制的に行おうとすることにも怒りが巻き起こりました。小坂からももちろん怒りの声を挙げ続けました。
さらに異常な数の警察官を配置。頑張れ日本のデモは粛々と行うのみだという実績は積んでいるのに・・・。この写真は全体の一部で、この倍以上の警官がこの公園の近くにいました。
「拡声器も使わず、一組五人に分離された抗議の声を挙げる活動」は普通に民間人が歩き、自転車に乗り、
車道には自動車が走っている、「公道」で行っているだけです。大使館の敷地に入ることもないどころか、抗議するものについては、大使館側の歩道を歩かせることすら許しません。通行人は大使館側の歩道を普通に歩いてますが・・・。
大使館に攻撃を加えることが可能なのは、デモ隊の参加者ではなく、そこを単に通行するふりをしたゲリラ的攻撃者の方がはるかに危険性が高いのですから、警察が本気でテロを防ぎたいのであれば、その道路を通る全ての歩行者の荷物検査をする方向で考える筈ですが、そうはなっていません。
5人一組に分断して、間隔も異常に空けて、不要な荷物検査、身体検査で不快感を与え、拡声器も一切使わせない。日本国民の声や日本に来ている被弾圧民族の声を大使館の前で伝えることすらさせない。
逆に支那の日本大使館では好き勝手にやられ放題。
こう書くと、「民主党政権が上にいるから売国の指示が出て、現場も従っているのだから仕方ない」「現場の警官は可愛そう」という意見もいただきます。
しかし、私はそれでも現場の警官に堂々と抗議の声を挙げる必要があると考えています。
こうした現場での「警察が勝手に決めたルール?」は法で決まっているのではなく、警察署長や警察官僚のさじ加減で決めている訳です。そうした警察の責任ある立場の者が矜持を持って、日本国がこうした場で警備をするのは、どうあるべきかを考え、ルールを決めることができるのです。
政権政党が様々な意向を現場に強制しようとしても、現場の責任者の強い意志があれば、「上手にかわして、むしろこちら側の論理に取り込む」こともできる筈です。ある意味、官僚の得意技。
具体的事例として、財務官僚が民主党政権に「増税せねば日本が崩壊!」という妄想を猛烈に注入して、「成果」を出しましたよね。(凶悪な事例ですが・・・)
警察の責任あるもののだらしなさが、このような日本人封じ込めに繋がっているのです。
そして、現場の警察官もそうした矜持を持たない上司のもとで現場に送られ、「売国警察」「日本人として恥ずかしくないのか」「税金泥棒」と罵られる。悔しくて心で泣いている警官もいるでしょう。
その悔しさを忘れずに、現時点では上司に現場の様子や自らの無念を伝え、本来あるべき姿の警備を模索する、また将来自分が責任ある立場になった際に、この日の悔しさを忘れず日本の警察としての恥ずかしくない警備を指揮するきっかけにしてほしいのです。
「現場の警官には罪は無い」とデモ参加者が文句も言わず従うのでは、売国勢力の思う壺で、さらにひどい日本人封じ込めに繋がります。
現場の警察官に「不甲斐無い上司からの指示」と「志を持つ国民からの心からの抗議の声」の中で葛藤を持たせることは不可欠です。それも警察の体質を是正する一つの力になると信じるからです。




