議案の中に「障害者自立支援法改正に伴う関係条例の整理に関する条例」が有り、それについて「障がい者」という表現が望ましいと発言した議員がいました。
それに対して区の答弁はからは、「法令等の名前で全て漢字表記となっているものには、その形にならうが、区独自で表記する際は障がい者と表記することに決めている。」といったものでした。
今までも議会の現場やブログ等で何度も「行政が無責任な言葉狩りを通じて日本語を改変し、いびつで醜いものにするのは止めるべき」と申し上げて来ました。昨日の本会議においても、同様の指摘を質問の最後のあたりに入れて糺したばかりでしたが、こうしたやりとりが有ったので、今日の委員会においても以下のような発言を致しました。
(実際は質疑・応答の形でのやり取りですが、長くなるので簡単にまとめました。)
「行政は日本語の歴史を踏まえて、「場の雰囲気に流されて言葉を変える」ことは絶対にやってはならない。日本国の自治体として言語を正しく引き継いで行く責務が有り、職員はその矜持を持って取り組んでいかねばならない。
私は「障害者」を「障がい者」などと言い変えることなど、馬鹿げていると指摘する障害者団体の方の話も聞いている。区は心のバリアフリー計画を策定する際に障害者団体の方々の声も聞いてきめたと言うが、特定の政治集団が流布した「言葉狩り推進」の説が場の雰囲気を支配し、それに引きづられるような状況を区が追認するようなことは間違っている。
そもそも「障がい」と書いた際の「がい」の字の意味は?「害」と書いた場合と違うのか?同じである。また、「障がい」の「障」の字は排除しないのか?しないとのことだが、区の説明を聞いても整合性、正当性を感じられない。
そもそもこうした言葉狩りは政治的思惑を持つ勢力が日本語を改変することで実績を積み重ねながら、そうしたことも通じて勢力を拡張しようとする思惑が込められたものであることを知っておかねばならない。実態は何も変わらないのに言葉をいじれば、改善したかのような言葉狩りを行政が主導することは、日本の文化や社会にとって極めて有害であり、無責任な姿勢である。
役所は日本語を正しく守り引き継いで行く役割も果たさねばならない。その責任は重く、障害者団体の方々に意見を聞きながら言葉を変える、という軽い形で日本語をいじるべきではない。その言葉を徹底的に研究し、様々な立場の日本語についての専門家の意見も聞くことなしに、その場の雰囲気に流されて、言葉を改廃していいほど、「軽い問題」ではない。
それぞれの担当の仕事が忙しく、そんな言語学や歴史をしっかり紐解いて言葉をどうするかまで、責任をもって対応できない、というのなら、「最初から言葉をいじったり、触るな!」と言いたい。
先程の議員の発言で「子供」を「子ども」と記載することも推進すべき、との話も有ったが、これも同様に論外。「子供の「供」という字は、大人の従属物であるという前時代的な認識に基づく差別的表現」だから「子ども」と書くべきだとの、特定の勢力の後付けの政治宣伝に行政が乗ってはならない。
こうした見方は共産主義的勢力の階級闘争史観であり、その言葉を受け入れることは、その勢力に加担することになる。「子供」の表記は奈良時代から、この表記と共に「子共」「小供」という表現など様々な表現が有る中で、「子供」の表記が自然に残ってきた歴史が有る。その歴史を無視して、特定の政治勢力の宣伝に右往左往して乗ることは今後あってはならない。
こうした指摘をした後、副区長からは「日本語を区としてしっかり守って行く」旨の答弁が最終的にはあったものの、上記のような「既に行った言葉狩り」を是正する姿勢は無い。こうした言葉狩りの動きに対しては、継続的に異議申し立てをあらゆる場でしていく。
最後に言っておくが、こうした言語破壊の言葉狩りの行く先が大阪府の吹田市で3年前、進められようとした「障害者を障がい者と言い変えるだけでは、不十分。本質が変わらないから。それなら「友愛者」と言い変えよう」という動き。冗談のような話だが、実際にそうした方向で進めることが行政からも示されたことは事実。
荒川区が進めている日本語破壊はこうした方向に進むものであり、日本国の自治体として、言語を守り継いで行く矜持を持つことを求め続け、自分もそれを守る為に戦っていく。



