2009年09月05日

命を捧げて祖国を守った英霊に感謝!

 マンションで集めたペットボトルのふたと缶のプルトップを一昨日、娘と共に赤土小学校に届けて参りました。「ちりも積もれば山となる」ですね。
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 徳田八郎衛氏(元防衛大學教授)(著書)が3回に渡って丹波新聞に寄稿した記事から、「大東亜戦争時の特攻についての現場にいた米国人の認識」について紹介致します。徳田氏の父親が特攻作戦を指揮した大西龍治郎中将と中学校で同期だったことから「父から聞いた大西龍治郎」というテーマで寄稿をされたとのことです。

 小坂の認識を少し書かせていただくと、大東亜戦争時の日本は亜細亜諸国を植民地支配していた欧米諸国と戦わざるを得なかった状況に置かれていました。戦わずにいれば、日本は米国の51番目の州か植民地となっていたでしょうし、アジアの植民地は当分、植民地のままだったでしょう。

 日本は良く戦いました。亜細亜各国の独立勢力を訓練して組織的に活動をできる能力と自信も育てました。

 しかし、戦いが進むにつれ工業力、資源の量、情報収集・分析力の差など様々な問題も有り、敗色が濃くなっていました。日本の国柄を最低限守る条件を確保するため、また、祖国の愛する人々に被害が生じることを防ぎ、遅らせるためにも、日本軍は必死で戦われました。「自分の命が大事」と日本軍の軍人がすぐに降伏をしていれば、祖国への侵攻は容易だと米軍に認識され祖国に及ぶ死傷者は結果として激増し、講和をする際にも足元を見られてしまうでしょう。

 念のため、「兵士は降伏すべきでない」とは申し上げておりません。ただ、自分の命を捧げる決意をして多くの日本兵が米軍に挑んだことで、結果として祖国に及んだ被害は少なくて済んだのは事実であり、そのことに現代を生きる我々は決して忘れてはならず、感謝の気持ちを持ち続けなければならないと思います。

 書き始めると止まらなくなりますので、そろそろ新聞記事を紹介致します。
(以下、丹波新聞 平成14年8月11日の連載記事より抜粋します)
父から聞いた大西龍治郎(上) 
  徳田 八郎衛

 十五年前の夏、居住する浦安市の姉妹都市候補としての調査で米国フロリダ州オーランド市を訪れた時、在日米海軍法務館ヒューズ大佐が「当地で弁護士をやっている、私と同じ苗字の叔父が貴官のような日本人と是非話たいそうだ」と伝えてきた。大学を中退して海軍に入り、西太平洋で日本と闘った元水兵だった。

 彼が言うには、「丹波の山奥へ疎開した貴方が今あるのも特攻のお陰ですよ。特攻作戦が無かったら、我が機動部隊は木更津沖や紀伊水道に常駐し、飛び上がっては地上の目標を叩き、飛び上がっては別の目標を叩いて、鉄道網を壊滅させています。国内の流通は麻痺し、二千万人位は栄養失調で亡くなったでしょう。それができなかったのは特攻が怖かったからです。

 「最初はレイテ沖海戦では戦果を挙げたものの、沖縄戦では対空砲の近接信管が効力を発し、大半が無駄死にになったと否定的に解釈されていますが」と答えると

それは安全な場所からの評論です。最前線の我々がどれほど特攻を恐れたか、わかってませんよ。日本の戦力が低下して散発的な攻撃になった五月でも、空母バンカー・ヒルは体当たりされ、私の親友も含めて四百人が死にました。もっと多数が同時突入を試みていたら被害と発狂者は続出し、沖縄上陸作戦も危うかったでしょう」と言う。

 確かに「この大戦で出会った一番恐ろしい兵器は特攻だった」と述べたのはハルゼー提督だ。また終戦直後に日本へ派遣された戦略爆撃調査団の報告も「より多くの特攻機が集中攻撃してきたら、本土進攻作戦の変更も有り得た」と記している。
(まだまだ続きますが、ここで抜粋は終了します。)

 こうした指摘を米軍の現場にいた方からされているということを、是非、皆様も多くの方に広めていただければ幸いです。
 
 最後に、何度見ても涙無しに見られない動画を二つ(「海の特攻 回天」と「特攻への感謝」)ご紹介しておきます。何度か、過去の記事でご紹介をしていますが、改めて。





 今夜は南千住グランドで大太鼓盆踊りが有りますが、こうして平和にお祭りを楽しめるのも、そうした先人がいらしてこそだということを改めて心に刻みつけたいと思います。

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スカウター : 荒川区議会議員小坂英二の考察・雑感
posted by 小坂英二 at 17:00| Comment(8) | TrackBack(0) | 区政全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
英霊に感謝です。
知覧特攻基地の遺品の数々に、頭を下げずにはいられませんでした。
Posted by う〜 at 2009年09月05日 17:41
>それは安全な場所からの評論です。最前線の我々がどれほど特攻を恐れたか、わかってませんよ。

また一つ勉強させていただきました。

保守は孤独です。
かなりの山間部の田舎に住んでいるのですが、こういう話が通じるのは妻と酒屋の昭和3年生まれのおじいさんだけです。

私の周りでは(日本軍が酷い事をしたという意味で)日本が嫌いな人が多すぎます。
もっと祖先の方々に感謝しないと、日本は英霊にも見放されてしまうんじゃないかと思っています。
Posted by 国憂う農夫 at 2009年09月06日 16:14
涙が止まりませんでした。
国立追悼施設の建設なんて、絶対阻止しなくてはなりませんね。
Posted by 東京から at 2009年09月06日 20:40
>>う〜 様
 英霊への感謝の気持ちを持ち続ける方が増えれば、社会は良い方向に変わっていくと確信します。
 知覧特攻基地、未だに訪問できずですが、訪れて当時の英霊と向き合って自らの目指すところをより強固なものにしたいと思っております。

>>国憂う農夫 様
 実に同感です。祖先がやってもいないことで名誉を汚されているのに、それを調べもせずに追認したり、火に油を注ぐように脚色を加えたりするのは、最早、れっきとした犯罪行為だと思います。
 感謝の気持ちを忘れた日本に明日は無いと思います。

>>東京から 様
 英霊との約束を反故にするコンクリートの塊(国立追悼施設)など、反社会的な無駄遣いです。座り込みをしてでも阻止せねばなりません。共に声を挙げて参りましょう!
 
Posted by 小坂英二 at 2009年09月07日 14:22
命を捨てるとありましたが命を奉げる日本国の為にの間違いではないかと思いますが、私には大きな違いに聞こえましたので、夏が来るといろいろと思い出します、8月15日の事も 学童集団疎開の事も荒川区で福島県観光案内の特別に窓口を開いておりましたので、学童疎開に行きました月舘町が恋しく良い思い出がある訳では無く、むしろ立ち竦んでしまうかも知れません、知る人も居ない町しかし行って見たい、この気持ちは昭和一桁生まれでないと理解できないでしょう、区役所職員の方が交通の便をしらべて頂きましたがバスが一日3往復親切に地図までプリントして頂きました、二人係で親切に調べて頂き恐縮しました、先方の役場のホームページアドレスと電話番号を聞き、家で調べましたが宿も無くバスの時刻表見ましても朝夕だけで東京からでは連絡がつかず、車を持たない私には戦時中は遠い処へ、思い出を悲しみから変えることが出来ない処へ行ってしまいました
Posted by 五十嵐 進 at 2009年09月08日 10:47
>>五十嵐 進 様
 ご指摘、ありがとうございます。おっしゃる通り、「捨てた」は不適切ですので、「捧げた」と変えさせていただきました。
 学童疎開についての具体的な話を次の世代にも引き継いでいきたいと思います。
Posted by 小坂 英二 at 2009年09月09日 12:50
ご存知とは思いますが、アメリカが恐れれて居た特攻 神風特攻隊。ですが内地では特高、特別高等警察のことで反戦主義者の噂、言動があったと云うだけで連行する誰もが怖れていた、私の父親が叔父の結婚式にお赤飯のもち米を茨城県まで行き買って帰り駅で捕まり言わなければ良かったのに誰でもヤミ米を食べていると言っただけで本部に連れて行かれ明日の式に間に合わなくなるからと願ったが「誰のだ云ってみろ」と怒鳴られたが叔父に迷惑をかけてはと、云わずに居たら嘘と思われ摂関され、中島航空機設計課の林と、伝えると一時間も経たないうちに帰って下さいと云われ、軍隊の強さ、力を知ったと親父は何度も云っていた
Posted by 五十嵐 進 at 2009年09月09日 15:41
>>五十嵐 進 様
 当時の厳しい状況を理不尽な実例にて教えていただきありがとうございます。特別高等警察の実態についてしっかりと調べてみたいと思います。
Posted by 小坂 英二 at 2009年09月12日 00:24
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